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戦時中のプロパガンダ週刊誌にレールガンを見た

 以前に紹介した「寫眞週報」(写真週報)の、別の号を紹介します。

 主な内容は
フィリピン独立
秋の実りに感謝
電気通信兵器
 の3本です。


 「写真週報」は、すべて国立公文書館 アジア歴史資料センターのサイトで内容を閲覧する事が可能ですが、画質にかなり難がある(読めない部分が多い)ため、この日記ではブログの容量の範囲内でそこそこ高画質(見開きでおおよそ横2000×縦1400ピクセル)の画像を使用しています。
 サムネイルをクリックし、表示された画像をさらに右クリックでお使いのパソコンに保存し、それを表示させ、ズームすることにより、最高の画質で閲覧することができます。
 当時を知る資料としてご覧ください。



 今回紹介するのは、写真週報 第295号(昭和18年(1943)10月27日発行)です。
 以前に紹介した第221号が昭和17年(1942)5月20日発行ですから、1年半程度後の号になります。
 この年の4月18日には、山本五十六ブーゲンビル島上空で戦死していますが、その事実が公表されたのは5月21日であり、6月5日には国葬が営まれています。
 かいつまんで言えば、日本が敗戦への崖を転落しつつある最中でしたが、本土への本格的な空襲はまだなく、一般人はさまざまな統制の強化や召集令状によって、間接的に戦況を感じ取っていたのではないかと推察します。

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 本号は、フィリピン独立特集のようです。
 表紙を飾るのは、フィリピンのラウレル大統領です。
 18ページに説明があります。

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 ちょうど稲の収穫期のため、それに即した内容になっています。

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 戦意高揚のためでしょうか、転載等の利用を奨励しています。

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 東久邇宮盛厚王殿下・同妃殿下の結婚式が行なわれたことが記載されています。
 なお、のちの昭和22年には皇籍を離脱することになります。

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 昭和18年(1943)10月14日のフィリピン独立についての記事です。
 大航海時代以来、スペインやアメリカの植民地となっていたフィリピンでしたが、2年間の日本軍の軍政を終え、フィリピン人によるフィリピン人の統治が始まった、とあります。
 なお、戦後には一旦アメリカの植民地に後退しますが、その後すぐに再独立を果たす事になります。

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 左端の女性はアキノ夫人とありますが、のちにマニラ国際空港で暗殺されたアキノ氏(ベニグノ・アキノ・ジュニア=後のアキノ大統領の夫)の母親ということになるのでしょうか。

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 軍政の間に作られた学校によって、フィリピン人の学力の向上が図られていること、併せて日本語の普及も進んでいる、とあります。

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 アメリカの植民地時代にはモノカルチャー経済を強制され、経済的にアメリカに従属していたこと、軍政開始後には、それまで禁止されていた工業製品の生産ができるようになり、アメリカ依存の経済からの脱却を始めた、と書かれています。

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 陸軍少年戦車兵学校を舞台にした映画「富士に誓ふ」を元に、同学校の募集広告を行なっています。

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 前線の兵士が寄稿した俳句や短歌など。
 左上の短歌から、すごく甘い香りが漂ってきますね。

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 農村の収穫レポート。
 一粒のコメも無駄にしてはいけないのは、昔も今も変わりません。

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 さて、今回の「寫眞週報」を公開したのは、実はここからのページを公開したかったからというのが大きな動機です。
 題して、新兵器の科学 4・電気通信兵器です。
 「4」ということは1~3もあるのですが、前述の国立公文書館 アジア歴史資料センターのサイトでバックナンバーが読めますので、興味のある方はそちらをどうぞ(ただし、字が潰れていて読みにくいとは思います)。

 このページでは、主に無線通信と有線通信それぞれの利点と欠点について述べられています。
 現在の携帯電話に、雑踏の中でも音声をはっきりと伝えることができるよう、咽喉マイク(声帯マイク)を搭載したものがありますが、当時すでに咽喉送話機によって、斥候中に声を出さずに通話することができたようです。
 また、無線による遠隔操縦や、遠隔カメラ(本文中では「電視(テレビジョン)」と表記されています)について、また、それらを組み合わせることの効果についても触れられています。

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 ページ上の囲みでは、当時のテレビジョンの原理が解説されています。
 ウィキペディアで機械式テレビジョンと紹介されているものですが、映像を電気信号に置き換えて送信し、受信側で電気信号を映像に復号するという原理は今のテレビと同じです。
 また、このページには「電氣砲」(いわゆるレールガンが紹介されています(「レールガン」と言っても、列車砲のことではないのでご注意を)。
 一般の砲が、火薬の爆発力によって弾丸を発射するという原理上、火薬の膨張速度という限界を抱えているのに対し、レールガンは理論上では無限の加速を得ることができるとされています。
 米軍では現在でも開発が続けられており、2020年代の実用化を目指しているそうです。

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 実りの秋ということで、お題は「増産の秋」。

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 裏表紙は、三和銀行(通帳、持ってました)の広告です。
 据置貯金というのは、今の定期預金のようなものだそうです。

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 本誌を戦意高揚のために有効に活用してください、とのことです。


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戦時中のプロパガンダ週刊誌を発掘

 「寫眞週報」(写真週報)なる雑誌が出てきました。
 ざっくりと説明すると、国が発行した戦時中のプロパガンダ週刊誌です。
 詳しくは Wikipedia をご覧いただくとして、内容をつまみ食いしてみようと思います。


 「写真週報」は、すべて国立公文書館 アジア歴史資料センターのサイトで内容を閲覧する事が可能ですが、画質にかなり難がある(読めない部分が多い)ため、この日記ではブログの容量の範囲内でそこそこ高画質(見開きでおおよそ横2000×縦1400ピクセル)の画像を使用しています。
 サムネイルをクリックし、表示された画像をさらに右クリックでお使いのパソコンに保存し、それを表示させ、ズームすることにより、最高の画質で閲覧することができます。
 当時を知る資料としてご覧ください。


 今回紹介するのは、写真週報 第221号(昭和17年(1942)5月20日発行)です。
 「トラ・トラ・トラ」の真珠湾攻撃が昭和16年12月8日(現地時間では7日)ですから、それから半年ほど経った時期です。
 日本海軍が壊滅的な打撃をこうむり、太平洋戦争の転換期となったミッドウェー海戦(昭和17年6月)のすぐ直前ですが、おそらくはほとんどの人が戦勝ムードに酔っていた頃だと思います。


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 国立公文書館で公開されている画像はモノクロですが、実際には表紙と裏表紙は二色刷りでした。
 本号は、海軍特集のようです。
 写真についての解説は、23ページにあります。

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旗艦三笠の橋頭に、あの日、はためいた戦闘旗」とは、明治38年(1905)5月の日露戦争日本海海戦のことを指すのでしょうか。
一億の感謝をこめて讃えよう」とありますが、戦時中の有名なスローガンで、軍歌にもなった「進め一億火の玉だ」という言葉から、当時の日本の人口が既に1億人を突破していたように思われますが、これには台湾と朝鮮半島の人口も含まれており、現在の日本の領域の人口は、7千万人台でした。

 なお、この「時の立札」のページは、後の号になると、欄外に「他へ転載その他ご利用下さい」と書かれるようになります。

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 永野修身軍令部総長。
 詳細は Wikipedia をご覧ください。

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 本文は主に見開きで、写真を多用した読み易いものとなっています。
 こちらは軍艦のグラビア。

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 こちらは海軍航空隊。

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 こちらは海軍潜水学校。
 潜水艦は「海底のドロ亀」から「海の狼」へと変貌した、とあります。

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 珊瑚海海戦のイラストと戦果、そして「大東亜戦争要図」。
 戦果として、撃沈した敵艦のスペックが書かれています。
「我々はこんなすごい敵を屠ったんだぞ!」と言わんばかりです。

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 開戦後に撃沈した英米の軍艦の一覧が載っています。
 まだミッドウェーでの大敗北の前であり、誰もが勝利に酔っていた時期でした。

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 現地リポートのページです。
 オランダ領東インド(おおよそ現在のインドネシア)がヨーロッパの支配下に置かれてからは、インドネシア独立歌を歌うこともできなかったが、日本軍の保護下に入ってからは裁判をインドネシア人自身の手で行なえるようになった。現地人の中には、日本軍の歩哨の「異状なし!」という言葉を挨拶だと思って、日本人に対して「イジョウナシ!」と言ってくる者もいる。オランダ支配下では差別されていたイスラム教徒は親日的な一方、同じインドネシア人でもキリスト教徒は日本人に対しよく思っていない。彼らもまたオランダ植民地政策の犠牲者なのだ……といったことが書かれています。

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「今日はみんなで海軍館を見学しませう」
「雷撃ッて、何のこと?」
「雷様にひどくやられることだよ」

 いきなりくだけた文体で始まっているのは、年少向けの記事だからでしょうか。
 海軍館は、旧海軍の記念館で、建物自体は平成4年(1992)まで残っていたそうです。

 中には
・観艦式の模型
・進水式の模型
・軍艦の断面模型
・水上偵察機の実物
・空母から艦載機が発進する模型
・給糧艦とその中で作られる食糧の模型
 てんぷらやお寿司やお菓子も作れる!? 本当に作ってたんでしょうか。
・秀吉の朝鮮出兵時の船の模型
・艦砲射撃装置
 照準装置役と砲手に分かれて、操作ができるようです。
・無線通信機の展示
・潜望鏡
……などの展示があるとのことで、今で言うところのてつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)のような施設だったようです。

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 戦場カメラマンについてのリポートです。

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 病院船についてのリポートです。
 条約によって病院船は攻撃しないことが定められていますが、日本軍がオーストラリアを攻撃した際には停泊していたイギリスの病院船には攻撃を加えなかったにもかかわらず、その後のティモール島ではイギリスが日本の病院船に攻撃を加え「非人道振りを発揮しました」……とあります。

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「忙しかつたこの半年」
 太平洋戦争開戦後半年の様子を、コミカルに描いています。
 インドの辺りには、ガンジーっぽい姿の人がいます。ただし、ガンジーは、帝国主義的な動きを見せる日本との連携には慎重だったそうなので、一般的なインド人を描いているだけかもしれません。
 左下で「金サヘアレバ・・・・」と言いながら沈んでいるのは、華僑でしょうか?

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 奥付です。
 編集した「情報局」とは、プロパガンダや言論・出版などを行なった政府機関です。
 詳しくは、 Wikipedia をご覧下さい。

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 裏表紙は貯蓄債券や報国債券の広告です。
 これらの債券は、戦後に無効にはなりませんでしたが、ハイパーインフレにより実質的な価値を失い、紙くず同然となったそうです。

「復興貯蓄債券の満期償還元利金で戦時債券をお買ひになれば乗換奨金が貰へます」とありますが、復興貯蓄債券とは、関東大震災からの復興のために発行された債券とのことです。


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昭和14年のマナーブック

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 昭和十四年一月一日発行婦人倶楽部付録
「すぐ役立つ問答式新実用お作法」(写真左上)
 を借りてきました。

 婦人倶楽部は、大正9年(1920)から昭和63年(1988)まで講談社が発行していた婦人向け雑誌です(Wikipedia)。
 講談社が今の社名になったのは昭和33年(1958)のことで、この付録がついた頃は「大日本雄辯會講談社(大日本雄弁会講談社)」という名前でした。

 戦前のお作法の本ということで、今でも内容的に通じる部分と、今とはすっかり変わってしまった部分があるのですが、いろいろ紹介してみたいと思います。


 著作権関連については、

・国民作法研究所長 甫守謹吾(1863-?)
 同著者の書籍が著作権保護期間満了扱いとなっています。
 本を出版されたのは、昭和17年(1942)が最後のようです。

・東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大)講師 岡 初野(生没年不詳)
 昭和19年(1944)の雑誌への寄稿を最後に、足取りが不明です。

・西崎綾乃(生没年不詳)
 昭和15年(1940)の雑誌への寄稿を最後に、足取りが不明です。

・東京家政学院長 大江 スミ(1875-1948)
 東京家政学院(現東京家政学院大学)創立者です。

 以上のとおり、甫守謹吾先生と大江スミ先生の寄稿分については著作権保護期間を満了しています。


 借主の許可ももらえたので、著作権保護上問題がないことがはっきりしている部分を、この日記の末に置いておきます(表示されない場合、more...の部分をクリックすると表示されます)。
 当時を知る資料としてご覧ください。

 以下、岡 初野先生と西崎綾乃先生の執筆分については、引用にとどめたいと思います。

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 当時からあった長身法。

★出征、入営、戦傷、戦死に関するお作法(甫守謹吾)p.6~10
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 戦傷、戦死のお作法は、今の世には役に立って欲しくないものです……。

★訪問のお作法(岡 初野)p.11~17
★接客のお作法(岡 初野)p.18~22
「茶の湯を知らないで出されたときはどうするか」
 ドキッとしますね。
 あと、訪問先に女中さんやボーイさんがいるのが前提だったりするあたり、当時の婦人誌の購買層のイメージ(妄想かも?)が広がります。
 親戚にも、戦前には女中さんがいたらしいのですが、昔のことなのでよくわかりません。

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 車のドアが観音開き!
 待機する運転手さんや車夫(人力車を引く人)へチップを払う場合もあったようです。

★贈答のお作法(甫守謹吾)p.23~27

★日常常識のお作法(岡 初野)p.28~31***
「旅館の茶代祝儀などはいつ出したらよいか」
 日本にチップの習慣があったなんて知りませんでした。
 しかも、宿泊代の2~4割が相場だったようです。
 さらに、女中さんには宿泊料の2割程度のチップを払い、風呂場の流しにも50銭~1円程度を置いたようです。
 「茶代廃止」を標榜した旅館もあったようです。

「国旗と外国旗とを並べる時左右どちらが正しいか」
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 なんと、ハーケンクロイツが!
 この本が出たのは昭和14年(1939)なので、まだ日独伊三国同盟の締結前です。
 平成23年(2011)年の映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」では、山本五十六が三国同盟反対の三羽烏の一人として非難されるシーンが出てきますが、おおよそ世間の雰囲気はそんな感じだったのでしょう。

★新年のお作法(甫守謹吾)p.32~35
★婚礼のお作法(甫守謹吾)p.36~48
 結婚や結納のしきたりは、地方によっていろいろと違うようですが、それは戦前ではなおさらだったようです。
 当時の中流階級の結納金が「大体百円見当」、返しとして「三十五円からせいぜい五十円」、物品として、この記事が書かれた頃には「モーニングなどを贈るのもよろしい」とあります。
また、現在では省略されていますが、当時は結納の使者が実際に両家を行き来したようです。
 ただ、
「近頃では一層簡略になって、双方が媒酌人の家に落合い、そこで両家の結納が交換されるのが多くなってきたようです。(中略)時勢に適したものと言えましょう」
 ともありますので、いつの世も簡素化が求められていたようです。

「婚礼日はどうして選んだらよいか」
 式の日取りは
「女には月の中約七日間は生理的に支障があるのですから、新婦本位に決めたいものです」
とのことです。
 世の男子諸君、心しましょう。

「披露宴の費用はどちらが負担するか」
 両家それぞれで招待した人数にに応じて分担、ただし新婦本人の分は婿方で負担するものとされていますが、地方の風習によってさまざまなので、その場合は媒酌人と相談して決めるのがよいとされています。

「結婚届けはいつするのがよいか」
「人によっては式を挙げても、その届の方はいつまでも放って置くのがあるようです」
(意図的にそうしている場合は別として)いつの世にもズボラなひとはいるようです。

★出産その他吉事のお作法(西崎綾乃)p.49~51
★病気見舞のお作法(西崎綾乃)p.52~53
 見舞い品として葡萄ジュースやトマトジュースを勧めています。
 滋養強壮にということでしょうか。

★災害見舞のお作法(西崎綾乃)p.54~55
「知人が召喚された時はどうしたらよいか」
 国家間の仲が悪くなったときに、相手国にいる大使を呼び戻す事を「召喚」という用例は知ってたのですが、この場合は裁判所からの出頭命令なのだそうです。不勉強でした。

★和食のお作法(大江 スミ)p.56~61
★洋食、支那食のお作法(大江 スミ)p.62~69
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 当時は、今で言う中華料理のことを「支那食」と称したようです。
 また、バターを「バタ」と表記しています。
 北海道土産で有名なマルセイバターサンドの箱にも「マルセイバタ」と書いてありますね。
 他にも、スイカの種の食べ方が載っています。

★果物、お菓子のお作法(大江 スミ)p.70~73
「水蜜桃のすすめ方 頂き方は」
 水蜜桃ってなんぞ? と思ったのですが、調べたところ、明治になってから輸入された桃で、現在一般的な桃はこの系統だそうです。
 つまり、水蜜桃以前の桃は、今の桃とは違ったものだったようです。
 桃太郎の桃は、そんなに甘くなかったのかもしれませんね。

 ケーキやシュークリームの食べ方は、今でも、お上品な方はここに書いてあるとおりにするようです。

★凶事のお作法(岡 初野)p.74~81
 香典袋に「御香典」「御仏前」「御霊前」などどう書くかというのは、いつの世も人を悩ませていたようです。
 仏式、神式、キリスト教式での対応の仕方が記載されています。
 また、喪服の代わりに
「黒リボンの記章をつければ、地味な平常着でよいという国民精神総動員連盟の決めに従うのも結構でしょう」
 そういうものがあったようです。

★手紙、電報のお作法(西崎綾乃)p.82~84
 電報の料金が載っており、これによると

1.同一市内 15銭
2.内地(3.以外の当時の日本領と考えればいいでしょう) 30銭
3.朝鮮・台湾・樺太・南洋諸島 40銭


だったようです。
 また、当時は弔電の「二」(漢数字)=「謹みて御悔み申す」が、祝電の「ニ」(カタカナ)=「合格を祝す」と間違って届くことが問題だったようで、このことに何度も触れられています。

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 満州出張所!

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 いつの世も、婦人誌に欠かせないのは化粧品の広告でしょうか。
 当時、まだ国民にとって、戦争とは「本土のはるか遠くでの出来事」でした……。


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